ハリー・パークスってご存じですか?

 

有名っちゃ有名なのですが、あまり歴史を詳しくない方には『何した人?』と思うかもしれません。

性格は少々アクの強くて、癇癪(かんしゃく)持ちだったと聞きますが、これは言葉遣いが荒々しかったから・・といった事ではないかと思われます。

 

ハリー・パークスは幼い頃、早くに両親を亡くし、かなり苦労をした努力家です。

聡明で知才に長けていたので、数ヶ国語をマスターしますが、その頃はちょうど清王朝が阿片戦争に敗北し、列強に侵攻されていた頃でした。

 

そのため、典型的英国紳士のような教養は身についていなかったハリー・パークスは、名門校出身の典型的紳士アーネスト・サトウからは白い目で見られていました。

その理由は、ハリー・パークスの荒々しい言葉遣いはふさわしくないと思われたのです。

 

こうした階級制度問題にもぶつかりながらも、ハリー・パークスは日本で18年間という長きにわたり働きました。

 

ハリー・パークスのような叩き上げ官僚は、このような偏見とも闘わなければならなかったのです。

そうした中で、異国の地日本で幕末〜明治初期にかけて18年間も英国の外交官で、日英公司を努めあげるなんて凄いですよね。

 

いかに優秀だったがわかります。

襲撃事件や彼の功績を順に振り返りながら、日本に与えた大きな影響を見ていきたいと思います。

 

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目次

18年間駐日英国公使だったハリー・パークス

 

18年間駐日英国公使だったハリー・パークス

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

長い間、中国で暮らしていたハリー・パークスは中国語に通じていたのが幸いし、日本公使に転任していたオールコックに認められて、1864年に上海領事となりました。

 

1865年(慶応元年)前年の四国艦隊下関砲撃事件でオールコックは、下関攻撃の主導的役割を果たしましたが、日本との全面戦争にもつながりかねないこの行動は、英国政府の意に沿うものではなく、公使を解任されました。

 

そうしてハリー・パークスはその後、任公使に任命され、横浜に到着しました。

 

幕府との交渉を開始しますが、当時の日本は将軍など幕閣の大半が第一次長州征討で江戸を留守にしていたので、ハリー・パークスは仏・蘭と連合艦隊(米国は代理公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉します。

 

結果、孝明天皇は条約勅許&関税率の改正を認めましたが、兵庫開港は不許可としました。(兵庫開港要求事件)

 

そんな頃、パークスは家族を迎えに上海に向かう途中の下関で、長州藩の高杉晋作伊藤博文と会談する事になります。

 

そして、1866年(慶応2年)に米仏蘭と幕府と改税約書に調印。

グラバーの仲介で鹿児島を訪問し、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)とその父・島津久光西郷隆盛寺島宗則と会見します。

 

第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと共に、下関で長州藩・桂小五郎伊藤博文、小倉で幕府老中の小笠原長行と会談。

両者の調停を計りましたが失敗します。

 

その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城に会い、年末、公使館を横浜から江戸の泉岳寺前に移転しました。

 

その後パークスは、大坂で徳川慶喜に謁見します。

この時、慶喜はまだ勅許を得ていませんでしたが、期限どおり兵庫を開港することを確約しました。

 

パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最もすぐれた人物」と語り、絶賛したと言われています。

 

敦賀視察の後、大坂から海路で江戸に帰り、イギリス海軍教官受け入れ準備の為、軍艦奉行・勝海舟と交渉しました。

 

軍艦スナップ号(後にバジリスク号)で箱館から日本海を南下し、新潟、佐渡、七尾を視察後、長崎経由で大坂へ。

 

イカルス号水夫殺害事件、浦上信徒弾圧事件を知った時には、幕府に対してイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及します。

 

当初は土佐藩の関与が疑われていたので、徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉しています。

 

兵庫開港・大坂開市時には、王政復古の大号令が出されたため京都を離れて大坂城に入り、徳川慶喜に謁見します。

 

そして1868年(明治元年)には京都で、三条実美岩倉具視などに会い、天皇にも謁見します。

御所に向かう途中、後にパークス襲撃事件と呼ばれる、暴漢に襲われる事件が起こります。

 

襲撃者は護衛に撃退され、ハリー・パークスは無事でしたが、謁見は3日後に延期。

新政府の東征軍が江戸に接近している頃横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたりました。

 

パークスは、日本人留学生の教育や日本海軍の育成に関して尽力し、外相グランヴィル伯岩倉具視寺島宗則らと会見し、条約改正予備交渉に同席します。

 

そこでは、日本でのキリスト教自由化&外国人の内地旅行自由化&治外法権撤廃&横浜駐屯イギリス軍撤退&下関戦争償金などについて協議しました。

 

明治維新後は、日本に対して西洋文明の導入を推進し、日本の近代化と日英交流に貢献し、日本アジア協会の会長を務めています。

条約改正問題では外務卿・寺島宗則と対立しています。

 

1883年(明治16年)7月

滞日18年目にして清国公使となり離日。

 

1884年からは駐韓公使を兼ね、1885年、任地の北京においてマラリアで、57歳で亡くなりました。

 

ハリー・パークスと日本の関係

 

ハリー・パークスと日本の関係

 

阿片戦争の後、アロー号事件(中国の貿易問題をめぐり発生した事件)で外交的手腕を発揮したハリー・パークスはそれを買われて上海領事となり、1865年には日本駐在となって以後18年間もの間、長きにわたり外交官として日本に滞在しました。

 

クールな手腕で次々に改革し、日本を近代化に導いたハリー・パークス。

難しい話以外にもたくさんの逸話が残されています。

では一部ご紹介します。

 

当時の首相ウィリアム・グラッドストンの指令で和紙についての研究を行い、文書は現在もロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館と王立キュー植物園に残されているそうです。

 

当時、富士山は女人禁制だったのですが、夫人を連れて登頂し、女人禁制解除の流れを作った。などの逸話も残されています。

 

1871年に廃藩置県が行われた時「欧米でこのようなことを行えば数年戦争が起きる。人間の仕業ではない」と、反乱が起きない様子を観察し、感嘆したと伝えられています。

 

日本人ではないですが、日本を愛し、日本のために尽力したハリー・パークス。

文章で書き現せないほど、日本に大きな影響を与え、日本の革命的出来事に携わってきました。

 

ハリー・パークス襲撃事件とは

 

ハリー・パークス襲撃事件とは

 

時は、1868(慶応4)年2月30日。

 

維新政府初の外国公使接見の儀式に参列の為、英国公使ハリー・パークスは27日上京して知恩院に宿を取り、朝見の日を待ちました。

そして朝見当日、ミカドとの謁見のため宮中に向かっていました。

 

パークスは英国騎兵を先頭に周囲を数十人の歩兵警備隊、さらに日本の高官である後藤象二郎に守られ、三条大橋にさしかかりました。

 

町角を曲がると、数名の日本人浪士の悪漢が飛び出してきて、抜身の刀で襲いかかってきました。

 

騎兵が戦いましたが、たちまち9名の重軽傷者を出し、ハリー・パークス公使の身辺が危うくなります。

先導役の中井弘蔵(薩摩藩士)は、咄嗟に馬からとび下り応戦。

 

一人を相手に戦いましたが長袴に足をとられつまずき、頭部に酷い切り傷を負い劣勢。

 

後藤象二郎、ハリー・パークス公使はこの段階ではまだ町角を曲がっていませんでしたが、馬の後じさりと前方で起きている乱闘で災害が起きたことを知り、すぐに馬から下り前方へ駆け出し、中井弘蔵の救出へ向かいます。

 

後藤象二郎は馬から飛び降りざまに兇漢を斬り倒し、悪漢の首をその場ではねました。

勇士にふさわしい戦いぶりでした。

 

ハリー・パークス公使は帯革(ベルト)を切られただけでケガはありませんでした。

 

この事件の後に、中井弘蔵は外務省の役人→滋賀県知事となり、後藤象二郎は新政府の高官となりました。

事件で勇敢に働いた両人に対し、ヴィクトリア女王から嘉賞として栄誉の刀剣を与えられたそうです。

 

主犯は二名。

 

一名は村医者の息子 → 朱雀操

もう一名は僧侶で浪士 → 三枝蓊(しげる)

 

異国人はみな切り付けろ!!的な短絡的な事件も多々あった世相。

 

このハリー・パークス襲撃事件も、犯人たちは主義思想があってハリー・パークスを狙ったのではなく、外国人を見たのも初めてだったとか。

当時の世相はそれほど不安定なものだったことが伝わってきます。

 

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